大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

岡山地方裁判所 昭和53年(ワ)460号 判決

昭和五二年(ワ)第五五号事件及び昭和五三年(ワ)第四六〇号事件原告

植谷稔

植谷喜美子

右原告ら訴訟代理人

清水洋二

山崎博幸

昭和五二年(ワ)第五五号事件被告

中村正人

昭和五三年(ワ)第四六〇号事件被告

宮岡照子

右被告ら訴訟代理人

広畑詔生

谷川勝幸

主文

一  昭和五二年(ワ)第五五号事件被告は、同事件原告植谷稔に対し、金九八七万七八二〇円及び内金八九八万七八二〇円に対する昭和五一年九月二一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、同事件原告植谷喜美子に対し、金九五四万七八二〇円及び内金八六八万七八二〇円に対する前同日から支払ずみまで前同割合による金員を、それぞれ支払え。

二  昭和五二年(ワ)第五五号事件原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  昭和五三年(ワ)第四六〇号事件原告らの請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用は、昭和五二年(ワ)第五五号事件及び昭和五三年(ワ)第四六〇号事件を通じ、昭和五二年(ワ)第五五号事件原告らと同事件被告との間においては、同原告らに生じた費用の一〇分の六を同被告の負担とし、その余は各自の負担とし、昭和五三年(ワ)第四六〇号事件原告らと同事件被告との間においては、全部同原告らの負担とする。

五  この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告中村正人は、原告植谷稔に対し、一九二二万八三六九円及び内一七五二万八三六九円に対する昭和五一年九月二一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、原告植谷喜美子に対し、一六九七万九七〇〇円及び内一五四七万九七〇〇円に対する前同日から支払ずみまで前同割合による金員を、それぞれ支払え。

2  被告宮岡照子は、原告らに対し、各三〇〇万円及び右各金員に対する昭和五一年九月二一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告らの負担とする。

4  仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する被告らの答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

昭和五二年(ワ)第五五号事件及び昭和五三年(ワ)第四六〇号事件原告植谷稔(以下「原告稔」という。)と同事件原告植谷喜美子(以下「原告喜美子」という。)とは亡植谷忠広(昭和四二年四月一四日生、以下「忠広」という。)の両親であり、昭和五二年(ワ)第五五号事件被告中村正人(以下「被告中村」という。)は肩書地において中村外科医院(以下「被告医院」という。)を開業している脳神経外科を含む外科を専門とする医師であり、昭和五三年(ワ)第四六〇号事件被告宮岡照子(以下「被告宮岡」という。)は昭和五一年九月一九、二〇日(以下、単に「日」をもつて示す。)当時被告医院に勤務していた准看護婦である。

2  忠広の受傷

忠広は、昭和五一年九月一九日午後六時一〇分ごろ赤磐郡山陽町山陽団地二丁目四番三一号先アスファルト舗装道路上で、友達とサッカー野球をしていて友達に追われた際に転倒し右側頭部を強打するという頭部外傷科の怪我した。〈以下、省略〉

理由

一1  請求原因1の事実(当事者)は当事者間に争いがない。

2  同2の事実(忠広の受傷)は原告ら各本人尋問の結果及び弁論の全趣旨から認められ〈る。〉

二忠広の症状及び診療経過

〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められる。

1  忠広は一九日午後六時一〇分ころ前記アスファルト舗装道路上で前記原因により転倒してうつ伏せ状態のままでいたところ、受傷後間もなく現場に駆けつけた原告稔の「痛いか」との問いに「うん、うん」と言つて、右側頭部のこめかみ辺りを押え激しい頭痛を訴えていた。その後、忠広は原告稔の同行の下に救急車で被告医院まで搬送されたが、同日午後七時ごろ同医院に到着して救急車から降ろされる際「出る、出る」と言つて二、三回嘔吐した。そして、救急車の担架から同医院の診察室のベッドに移される際、被告宮岡の「僕、そちらに移れるか」との問いに、寝転がるようにして自ら同ベッドに移つた。以上のとおり、受傷時から被告医院に搬送されるまでの忠広は、質問されれば簡単な言葉又は動作で応答することのできる状態であつて、その意識状態は割合はつきりしていた。

2  搬送後数分して、原告稔及び救急隊員から受傷の原因及び数回嘔吐のあつたことを聞いた被告中村は、同原告の依頼により忠広の一般状態、局部及び神経症状につき診察をして、次のとおりの診察結果を得た。(1)呼吸状態普通、(2)胸部及び腹部打聴、共に正常、(3)右後頭部に皮下腫脹あるも他に異常なし、(4)血圧最高一〇〇、最低七〇、(5)脈拍毎分八〇ないし九〇、(6)神経症状として、左右瞳孔不同症なく共同偏視なし、対光反射正常、両眼底精密検査の結果両側共に正常、四肢反射の異常及び麻痺なく、病的反射なし。以上の診察ののち、被告中村は、一九日午後七時三〇分ころに忠広の頭部のX線検査をして、右側頭骨と後頭骨の縫合線開離とみられる三、四センチメートルの二条の骨折ありとの所見を得た(なお、被告中村は、X線撮影の現像が出来上がるまでの間、別の頭部外傷の外来患者の診察、治療をした。)。

3  被告中村は、右診察及び検査結果から忠広の頭部外傷に関して軽い脳挫傷とこれに伴う脳浮腫と診断し、これによる症状の程度は中等度であり、今後その症状が持続するものと考え、安静を第一として経過観察しながら対症処置を行うこととして約一週間の入院を指示した。そして、同被告は、鎮痛、鎮静及び脳圧降下をはかるため、被告宮岡をして忠広に一〇パーセントフェノバール二分の一筒、硫酸アトロビン二分の一筒及びデキサシエロソン二ミリグラムを筋注させるとともに、同被告に氷罨法を施し膿盆を用意するように指示した。

4  一九日午後八時ごろ、忠広が被告医院二階の病室に移されたのち、被告宮岡はアイスノンを持つて来室したが、アイスノンが凍つておりしかも忠広が頭痛を訴え身体を動かすためこれを同人の頭部にあてがうことができず、結局原告稔に自分で氷枕を用意するように依頼して、忠広の脈拍、呼吸状態を観察しいずれも正常であることを確認して退出した。忠広は前記注射後、一時鎮静していたが、やがて激しい頭痛を訴えるようになり、嘔気を催すこともあつた。

5  忠広が右病室に移つてまもなく付添看護することになつた原告喜美子は、忠広の頭痛が激しい様子から、被告宮岡に何らかの治療をしてくれるように依頼したところ、同被告は被告中村に連絡しその指示を仰いだ。同中村は忠広の症状を直接診察することなく、同宮岡をして忠広に一〇パーセントフェノバール一筒及びアタラックスP二五ミリグラム一筒の筋注並びにインダシン座薬一箇を投与させて鎮痛、鎮静及び脳圧降下をはかつたところ、忠広は右フェノバール等の催眠作用により睡眠状態に入つた。その際、同宮岡は忠広の脈拍、呼吸状態を観察し異常のないことを確認して退室した。

6  一九日午後九時ごろ、被告宮岡は睡眠中の忠広の着替えをして、同人の頭部にヘルベックスの湿布をし、さらに同日午後九時三〇分ごろには原告稔が買つてきた氷を氷枕に入れて忠広の頭部にあてがつた。そして、右いずれの際にも、また同日午後一〇時ごろにも前同様の観察をし異常のないことを確認して同日午後一〇時三〇分ごろ被告中村に忠広の症状に異常のない旨報告した。

7  その後、被告らによる忠広の経過観察がされなかつたところ、翌二〇日午前二時ごろ、睡眠中の忠広に二回両手を上に挙げるという動作がみられ、さらに同日午前四時三〇分ごろから鼻をゴーゴー、スースーと鳴らすといつた今までにない異常ないびきがみられたため、これを心配した原告喜美子は被告宮岡に右異常ないびきの状況を訴えたが、来室した同被告は前記フェノバール等の注射に基づく催眠作用により忠広の意識は午前七時ごろまで正常に戻らないはずであるとの先入観から、忠広の状態を十分観察することなく安易に異常がないものと速断し、同原告にその旨告げて退室し、被告中村に同原告の訴えを連絡しなかつた。

8  その後、忠広のいびきの状態は長くなつたり短かくなつたりして次第に不規則となつていたが、二〇日午前五時三〇分ごろ忠広がいびきをかかなくなつたため、呼吸が停止したものと驚いた原告喜美子は直ちに被告宮岡に連絡し、来室した同被告に右異常を訴え同被告から人工呼吸の方法を教わり実施していたところ、まもなく同被告から連絡を受けた中村が来室し、酸素吸入及びボスミン心内注射等の処置をしたが、その効果なく、忠広は同日午前六時ごろ死亡するに至つた。

〈反証排斥略〉

三忠広死亡の原因

1  〈証拠〉及び同人の鑑定の結果を総合すると、次の事実が認められる。

忠広の直接の死因は、脳幹部障害に基づく呼吸及び循環機能の停止によるものであるが、その原因としては、(1)頭部打撲により脳挫傷を生じ、これに伴つて脳浮腫が発生し漸次増強するため、側頭葉内面が天幕切痕部に陥入して中脳に急激な圧迫が加わり脳幹障害を起こすと同時に、小脳扁桃部が大後頭孔内に陥入して延髄を圧迫し呼吸及び循環機能の停止を来たす場合、(2)頭部打撲による脳血管損傷のため頭蓋内血腫が発生し、血腫の増大に伴つて頭蓋内圧が亢進し、血腫側の大脳半球が内側に圧排され、右(1)と同じ機序により脳幹部障害による呼吸及び循環機能の停止を来たす場合の二つが考えられるところ、死の転帰をとりかねない脳挫傷については、受傷時から意識障害を来たす程重大なものであると言われており、また、頭蓋内血腫としては、硬膜外血腫、硬膜下血腫及び脳内血腫の三種類があるが、そのうち、硬膜下血腫においてはしばしば脳の挫傷を伴い受傷時から意識障害を来たすことが多く、脳内血腫においては脳の損傷が強く、これもまた受傷時から意識障害を来たすことが多いと言われている。さらに、硬膜外血腫においては、その出血源は動脈系では普通中硬膜動脈が直上を走る骨折により損傷された結果によることが多く(なお、硬膜外血腫が明らかに存在することを手術的に確かめえた症例では、その約九〇パーセントに頭蓋骨骨折を伴つていることが認められるが、その逆の場合、すなわち骨折線が中硬膜動脈を横切つている症例に、どの程度の頻度で硬膜外血腫が発生するかということに関する統計的調査は少ないと言われている。)、その好発部位は側頭部が最も多く、その症状は受傷時に意識障害が全くなかつたか、短時間の意識障害のあつたものが意識清明となり、一定時間後に意識障害を来たすという経過、すなわち意識清明期をもつものが大部分であると言われている。

2  そして、右事実によれば、前認定にかかる忠広の受傷、症状及び診療経過のとおり、受傷時から初診時までの忠広の意識は、割合はつきりしており(但し、意識清明期があつたかどうかは、証拠上確定し難い。)、同人の右側頭部(硬膜外血腫の好発部位)には二条の骨折があり、しかも頭蓋内圧亢進症状(頭痛、嘔気及び嘔吐)がみられたのであるから、同人の直接の死因である脳幹部障害による呼吸及び循環機能の停止の原因は硬膜外血腫であると認めるのが相当であり、右認定を左右すべき証拠はない。

四被告中村の責任

1  被告中村は、本件診療に際し、脳神経外科を含む外科の専門医として、その有する専門の医学上の知識と技術をもつて忠広の頭部外傷の内容、性格を検査診断し、かつ適切な経過観察の下に治療を施すべき義務がある。そこで、被告中村の右義務違反(過失)の存否につき検討する。

(一) 前記三の1で認定した事実並びに〈証拠〉を総合すると、以下の事実が認められ〈る。〉

(1) 急性期の頭部外傷患者の診察に当たつては、その患者の示す症状が主として脳損傷(脳挫傷)に基づくものか、又は頭蓋内血腫を伴うものであるかの鑑別が重要であるとされているが、これは前者においては保存的療法を主とするが、後者においては早期の血腫の除去手術が不可欠であることによる。したがつて、医師としては患者の示す意識状態、神経症状及びバイタル・サインの変化を観察して的確な診断の下にその後の治療方針を決定すべきことが要求される。

(2) 硬膜外血腫において、その出血源は動脈系では中硬膜動脈が直上を走る骨折により損傷された結果によることが多いけれども、小児においては骨折がなくても右血腫が発生することもあるとされ、中硬膜動脈からの出血による血腫においては発症が急速であると言われている。

(3) 次に、臨床症状及び経過から硬膜外血腫を疑う場合にその拠り所となる所見は、(イ)意識状態の変化、すなわち受傷直後一過性の意識障害があり、その後意識清明であつたものが、数時間を経て次第に意識レベルの低下を来たすこと、(ロ)瞳孔の大きさに左右差があること、(ハ)一個の上下肢の運動に障害がみられ病的反射が出現すること、(ニ)頭蓋内圧が亢進して頭痛、嘔気、嘔吐が出現することなどであるが、右のうち(イ)の意識清明期についてはその出現頻度が高いとは認められるものの、受傷直後全く意識喪失なく一定時間後意識障害を来たす場合(これは潜在期と言われている。)や、受傷直後から意識障害の続く場合もあるとされている。また、右の(ロ)及び(ハ)の各症状は、脳神経が圧迫される結果出現するものであるから、血腫がある程度の大きさになるまで出現しないもの、つまり受傷後ある程度の時間が経過してから出現するものであり、さらに、右(ニ)の頭蓋内圧亢進症状は脳挫傷に伴う脳浮腫の増強によつてもみられるものである。そして、以上の臨床症状等の発現は血腫増大の速度、発生部位によつて異なるが、側頭部の血腫の場合、中硬膜動脈からの動脈性出血に加え、脳幹部に近いためそこに影響が加わりやすく、症状の進展が急激であると言われている。

(4) 右にみたとおり、硬膜外血腫の症状の発現はある程度の時間の経過に伴つて生ずるものであるから、患者の意識状態の変化、瞳孔の左右差、運動障害や病的反射等の神経学的所見及びバイタル・サインについて、初診時のみならず、その後も継続的に経過観察をする必要がある。さらに、硬膜外血腫の補助診断法としては頭蓋単純X線撮影、超音波検査及び脳血管撮影(被告医院には超音波検査の装置は設備されていない。)等の各検査があり、頭蓋単純X線撮影によつて頭蓋骨骨折の有無、位置、性状に関する所見が得られるが、臨床的に硬膜外血腫の多くは骨折を伴うことから中硬膜動脈を横切る骨折線を認めた場合には硬膜外血腫の存在を疑う必要がある。また、脳血管撮影は検査技術の複雑さ、難しさ等から右検査に習熟した者が行わないと危険とされ、右検査の適応も受傷後意識喪失が二、三時間続くとか意識状態が悪化するとか、又は意識清明でも局所的脳症状を示すとか、といつた場合であるとされている。

(5) 硬膜外血腫の治療としては血腫の除去手術が唯一の救命方法であり、これにより患者の約七〇パーセント(森安鑑定に示された手術成績によると、日本の症例(日本大学脳神経外科教室)では術後良好のもの76.6パーセント、何らかの後遺症を伴うものを含めると93.3パーセント、米国の症例(ヴァージニア大学脳神経外科ミラー教授発表の論文)では前者六七パーセント、後者七二パーセント)は救命できるとされている。ただ、手術予後が良好かどうかは手術前の意識障害の程度に大きく左右される外、早期に血腫除去手術がされるかどうか、受傷により重篤な脳損傷を合併しているかどうかにも影響される。なお、原告らは小児の場合手術予後は成人に比して良好である旨主張し、〈証拠〉にはこれに副う記載があるが、他面〈証拠〉中にはこれに反する記載もみられ、さらに、〈証拠〉によると、三歳児以下の場合はともかく、それを超える小児の場合においては手術予後(救命率)は成人の場合と異ならないことが認められるから、結局原告らの右主張は採用し難い。

(二)  次に、進んで、右認定事実を前提として被告中村のした診断及び治療行為の当否について検討する。

(1)  被告中村が初診時において忠広の頭部外傷につき軽い脳挫傷とこれに伴う脳浮腫と診断したことは当事者間に争いがない。そして、右診断は、前認定のとおり、同被告が右診断時までに認識していた忠広の頭部外傷の原因、その症状及び同人の意識状態(すなわち、サッカー野球をしていてアスファルト舗装道路上に転倒して右側頭部を打撲し、激しい頭痛を訴え、搬入時までに二、三回嘔吐したこと、意識は呼べば答える程度で割合はつきりしていたこと)並びに右診断時までにした診察及び頭蓋単純X線撮影の結果に基づくものである。ところで、急性期の頭部外傷患者の訴える頭痛と嘔吐の症状、すなわち頭蓋内圧亢進症状は、硬膜外血腫に特有なものではなく、脳挫傷とこれに伴う脳浮腫においてもみられること(前記1(一)(3)に認定のとおり)、他に診察結果から硬膜外血腫と診断するに足りる臨床症状は認められなかつたこと、急性期の頭部外傷患者のうち、脳挫傷の占める割合は五〇パーセント以上であるのに比べ、頭蓋内血腫全部の占める割合は約一〇パーセントであり、硬膜外血腫に至つては約三パーセントに過ぎないと言われていること等の事情からすると、被告中村の右診断自体を把えて明らかな誤診であるとまでいうことはできない。原告らは、忠広には意識清明期があつた旨主張するけれども、受傷直後に一過性の意識障害があつたかどうかは本件各証拠によるもこれを明らかにすることができず、また、初診時以降の意識状態の変化に関してカルテ及び看護記録にその記載がなく、結局これを認めるに足りる証拠はないというほかない。さらに、原告らは、骨折線が中硬膜動脈を横切つている高度の蓋然性がある旨主張するところ、〈証拠〉及び森安鑑定によると、これを認めることができるけれども、右各証拠によるも、骨折線が確実に中硬膜動脈を横切つているとまでは認められないのであつて、しかも、中硬膜動脈を横切る骨折のあるすべての症例に硬膜外血腫が発生するとまではいえない(前記三の1のとおり)のであるから、忠広の頭部外傷につき硬膜外血腫である旨診断すべきであつたとまで認めることはできないというべきである。

(2) ところで、原告らは、被告中村のしたフェノバールの筋注をもつて不適切な治療である旨主張するところ、〈証拠〉及び森安鑑定によると、フェノバールは頭蓋内圧を下げる作用を有するものであつて、その注射は脳浮腫を軽減し頭部の安静を保つため有効な治療行為であるところ、頭蓋内血腫が発生、増大した段階では頭蓋内圧を下げる作用がなく有効な治療を期待し得ず、フェノバールの有する催眠鎮静作用のため硬膜外血腫の診断に必要な意識状態の経過観察の多少の妨げとはなるが、それ以上にその観察を全く困難にするものとはならないことが認められる。これによれば、前認定のとおり、被告中村が忠広の症状について軽い脳挫傷とこれに伴う脳浮腫と診断したこと自体をもつて明らかな誤診とはいえないのであるから、右診断に基づき脳浮腫軽減のためフェノバールの注射を二回にわたりした同被告の治療が誤つたものであると認めることはできない。

(3)  さて、忠広の頭部外傷について軽い脳挫傷とこれに伴う脳浮腫と診断した被告中村の診断自体に過失が認められないことは右のとおりであるが、そうであるからといつて硬膜外血腫の可能性がないとまでいえないことは、急性期の頭部外傷患者である忠広の受傷の原因、その症状及び同人の意識状態及び骨折線の位置からして明らかであつて、むしろ硬膜外血腫である可能性は大であるというべきであるから、前記四1(一)の(1)ないし(4)の認定事実に照らすと、被告中村としては忠広の頭部外傷につき硬膜外血腫の可能性を十分念頭において初診時以降の診療に当たるべきであつたというべきである。すなわち、被告中村は、前記四1(一)の(4)に認定のとおり、忠広の意識状態の変化、瞳孔の左右差、運動障害や病的反射等の神経学的所見及びバイタル・サインについて継続的に経過観察すべき注意義務を有する。このことは診療当時の一般的な医療水準に照らし開業している外科医に対して期待できる事柄に属しているものと認められる。しかるに、前記二に認定のとおり、被告中村は初診時に忠広の診察をしたのみで、その後忠広の症状が悪化した二〇日午前四時三〇分ごろまでの間、自らは何らの経過観察をすることなく、准看護婦の被告宮岡に経過観察について具体的指示をせずすべてを任せたままであつたというのであるから、右注意義務を怠つたものと認めるのが相当である。右の点に関し、被告中村は、硬膜外血腫の頭部外傷に占める割合が低いことをもつて、忠広につき硬膜外血腫の可能性は小さい旨主張するけれども、右主張は頭部外傷一般に関するものとして首肯しうるだけであつて、前認定にかかる忠広の症状等に照らしてこれを採用することは到底できない。また、同被告は、対症処置を行うに必要な忠広の一般状態、意識状態等の経過観察をしていた旨主張するけれども、前認定のとおり、被告宮岡のした観察は忠広の脈拍、呼吸状態等であつて、硬膜外血腫の可能性をも前提として要求される経過観察としては不十分というほかない。

2  そこで、被告中村の前記経過観察を怠つた不作為と忠広の死亡との間に因果関係が存在するかどうかについて判断する。

硬膜外血腫を疑うに足りる臨床症状として掲げられる前記四症状等(前記四1(一)(3)の(イ)ないし(二)のとおり)の出現までに要する時間は血腫増大の速度、発生部位等個々の症状により異なるが、中硬膜動脈を出血源とする硬膜外血腫にあつては、その症状の進展が急激であると言われていること、忠広の骨折線は中硬膜動脈を横切つている高度の蓋然性があること、頭痛、嘔吐等の頭蓋内圧亢進症状は受傷後一、二時間で出現していることは前認定のとおりであり、〈証拠〉によると、意識水準の低下や瞳孔の異常は受傷後二、三時間で出現する場合のあること、本件において忠広は受傷後約一二時間で死の転帰をとつていることからして、遅くとも受傷から六時間後の二〇日午前零時ごろまでには忠広に前記各症状が出現していたであろうことは容易に推認できるものというべく、したがつて、被告中村が初診時以降も経過観察を怠つていなければ、右午前零時ごろまでに忠広の頭部外傷が硬膜外血腫である高度の蓋然性のあることを当然疑い得たはずである(経過観察の方法自体が容易であることは〈証拠〉により明らかである。)。そして、硬膜外血腫の高度の蓋然性があるときは、被告において硬膜外血腫の唯一の救命方法である血腫除去手術をするに足りる人的、物的設備の定備した岡山市内の病院(〈証拠〉によると、当時岡山市内でその設備の完備した病院として岡山大学医学部付属病院、国立岡山病院、川崎大学付属川崎病院及び岡山済生会総合病院の四院があり、また、〈証拠〉によると、被告医院では以前から手術適応のある患者は右岡山済生会総合病院へ転院させて、同病院で手術を受けられるような体制になつていたことが認められる。)へ転送することが可能であり(転送する場合の硬膜外血腫の可能性の程度は硬膜外血腫であることの高度の蓋然性があれば足りるから、脳血管撮影等の検査をして確定的診断をするまでもないことは〈証拠〉により認められる。)、早期に右手術がされておれば、硬膜外血腫の除去手術による救命率は前認定のとおり約七〇パーセントであることからしても、忠広を救命できる可能性は多分に存在したものと推認するのが相当である。

したがつて、被告中村は初診時以降の経過観察を怠つたことにより硬膜外血腫の高度の蓋然性のあることを看過して血腫除去手術を受ける時期を失わせたものというべく、同被告の前記不作為と忠広の死亡との間には法律上の相当因果関係があると認めるのが相当である。右に関し、被告中村は、忠広には硬膜外血腫を疑うに足りる臨床症状のないまま推移し二〇日午前五時ごろに至り脳幹部障害が急激に現われたものであるから、忠広の救命可能性はなかつた旨主張し、これに副う〈証拠〉があるが、硬膜外血腫を疑うに足りる臨床症状が同日午前零時ごろまでなかつたとする前提事実自体、前認定に照らして採用し得ないのであるから、右はこの点において既に失当というほかない。

3 以上によれば、被告中村は忠広の死亡について不法行為上の過失責任を負担すべきである。

ところで、前認定のとおり硬膜外血腫の除去手術による救命率が約七〇パーセントであつて、しかも手術予後が良好かどうかは手術前の意識障害の程度に大きく左右されるところ、〈証拠〉によると、硬膜外血腫の蓋然性の高い患者を被告医院から手術設備の完備した岡山市内の病院へ転送してその手術を開始するには約四時間を要し、したがつて二〇日午前零時ごろに忠広を転送した場合、手術開始は同日午前四時ごろになることが認められ、しかも前記二の7及び8の認定によると右時刻ごろの忠広の意識障害の程度は軽くはないことが窺われるから、仮に救命し得たとしてもその予後が必ずしも良好であるとまでいえないこと、また被告中村に前記過失があるとはいえ、〈証拠〉によると、忠広の頭部外傷について硬膜外血腫と診断することは必ずしも容易であつたとはいえないこと、さらに被告医院は医師一人、准看護婦一人の開業医院であつて、准看護婦の被告宮岡自身、脳神経外科に関して専門的に教育されているとはいえないこと、その他前認定にかかる諸般の事情を総合考慮すると、被告中村が負担すべき損害賠償責任は、本件死亡に基づく全損害の六割と認めるのが相当であり、これを左右するに足りる証拠はない。

なお、被告中村は、原告らの訴えの変更にかかる請求の拡張部分について消滅時効を主張するけれども、前認定のとおり原告らの同被告に対する損害賠償請求権は不法行為に基づくものであるところ、本訴はいわゆる一部請求ではないことが明らかであるから、訴えの提起(その日が当事者間に争いのない忠広死亡の日から三年以内の昭和五二年一月二七日であることは記録上明らかである。)による消滅時効中断の効力は原告らの請求拡張部分を含む本件の全損害に及んでおり、したがつて同被告の右消滅時効の主張は理由がない。

五被告宮岡の責任

被告宮岡は資格を有する准看護婦であるから、医師又は看護婦の指示の下に、傷病者の療養上の世話又は診療の補助をする義務がある(保健婦助産婦看護婦法六条、三二条参照)ことが明らかである。ところで、〈証拠〉によると、被告宮岡は、忠広の症状につき軽い脳挫傷とこれに伴う脳浮腫と診断してその入院を指示した同中村から、その際、絶対安静と氷罨法を指示されたのみであつて、その診断名や経過観察についての具体的方法に関し、何らの指示もされなかつたことが認められるところ、同宮岡はその後、前記二に認定のとおり一九日午後八時ごろから同日午後一〇時ごろまで、数回、忠広の脈拍及び呼吸状態に関する観察をし、その間原告喜美子による忠広の頭痛の訴えを同中村に連絡してその指示を仰ぎ、同日午後一〇時三〇分ごろには右観察の結果忠広に異常のない旨報告している。以上の事実によれば、被告宮岡は同中村の指示の下に看護をしていることを認めることができるのであり、したがつて同被告に前記義務の違反があるとすることはできない。原告らは、被告宮岡に忠広の意識状態、運動麻痺及び瞳孔異常等硬膜外血腫の診断に必要とされる経過観察をすべき義務のあることを主張し、〈証拠〉にはこれに副うかのような記載部分があり、かつ同被告自身も頭部打撲患者の看護の経験を有し、頭部外傷に関する知識をある程度有するところから、忠広の症状につき脳浮腫や頭蓋内血腫を予想した旨供述するけれども、被告中村の指示に著しく違反したという場合はともかく、被告中村自身が硬膜外血腫について高度の疑いを持たなかつた本件において、その指示を超える看護(経過観察)を要求することは失当というべく、原告らの右主張は採用することができない。

したがつて、その余の点について判断するまでもなく、原告らの被告宮岡に対する不法行為に基づく損害賠償請求は理由がない。

六損害

1  忠広死亡による逸失利益の相続分

(一)  原告ら各本人尋問の結果及び弁護の全趣旨によると、忠広は死亡当時九歳五か月であつて、生前は健康な男子であつたことが認められるから、一八歳から六七歳までの四九年間、稼働が可能であると推認される。ところで、その成立、存在及び内容が当裁判所に顕著な賃金センサス(昭和五五年度)によると、同年度における全産業男子労働者の年間平均給与額は三四〇万八八〇〇円であることが認められ、昭和五六、五七年の二年間で労働者の給与額が少なくとも合計五パーセント上昇していることは公知の事実であるから、昭和五七年度における年間平均給与額は三五七万九二四〇円と推認される。したがつて、忠広の逸失利益の総額は三五七万九二四〇円から生活費として年五〇パーセントを控除し、ライプニッツ式計算方法(ライプニッツ係数11.7117)により中間利息を控除して算出される二〇九五万九四〇〇円(百円未満切捨)となる。

(二)  原告らは忠広の両親である(この点は当事者間に争いがない。)から、忠広の死亡により右逸失利益の総額を各自法定相続分(各二分の一)に従つて相続したことが認められる。

2  葬儀費用

葬儀費用(墓碑建立、仏壇・仏具購入費を含む。)は五〇万円と認めるのが相当である。

3  慰藉料

原告ら各自につき四〇〇万円をもつて相当と認める。

4  以上を総合すれば、被告中村は、原告稔に対しその損害額一四九七万九七〇〇円の六割である八九八万七八二〇円を同喜美子に対しその損害額一四四七万九七〇〇円の六割である八六八万七八二〇円を、それぞれ支払わなければならない。

5  弁護士費用

原告稔につき八九万円、同喜美子につき八六万円の弁護士費用を被告中村に負担させるのが相当である。

七結論〈省略〉

(白石嘉孝 岡久幸治 黒岩巳敏)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例